遊びの心得 其の1 肩の力を抜こう
政治は我々の暮らしにシビアに直結しています。
我々の暮らしのために行われるのが政治ですから当たり前です。
そして、暮らしの問題は健康や財産、ひいては生命に関わってきます。
そのため、我々は政治を話題にする時、どうしてもシリアスになりがちです。
また、そもそも暮らしがシリアスな時ほど政治への意識が高まりますから、ますますその傾向が強くなります。
ということは、結果的にシリアスなだけで、政治と関わる時、別にシリアスである必然性はありません。
もし、はじめて政治と向き合う気になった、あるいは興味を持った皆さんにとって、このシリアスさがネックになりそうなら、思い切って捨てましょう。
シリアスになることを徹底的に拒否して、できるだけ無責任に、できるだけ他人事として政治と向き合ってみましょう。
すると政治は、シンプルに面白いことに気づくかも知れません。
日常生活から始まり、ビジネスはもちろん、テクノロジーやスポーツや学問や芸術、そして遊びと、およそ人間の営みのどこを切り出しても、政治との繋がりや影響を見つけられます。
裏を返せば、政治を切り口にした人類の生態観察は、その生態のかなりの範囲をカバーできます。
広範囲すぎて、コンプリートは無理なんですけど、取っ掛かりがたくさんあるってのがメリットです。
身近にも転がっていますし、もともと興味ある分野にも繋がりが見つけやすいです。
生態観察と考えれば、一種の遊びです。
気の長い遊びでもありますし、元より成果なんて期待するようなものでもありません。
思い切り肩の力を抜いて、虚心坦懐に臨みましょう。
遊びの心得 其の2 こっそりやろう
日本のような民主制の国の政治は、その設計上、国民の中に「無関係な第三者」が存在しません。
うっかりすると、観客、野次馬、傍観者でいることすら許されない雰囲気があります。
ところが一方で、「政治に興味がある」なんて宣言した日には、ちょっとややこしい人と思われて周囲から距離を置かれそうです。
だからわざわざ宣言なんかしなくて良いんです。
こっそりやりましょう。
別に後ろめたさを感じる必要はありません。
「こっそり」は政治的にはむしろ正しいくらいです。
だって、投票は完全にこっそりですから。
愛と平和と平等を声高に唄い貧困救済に尽力する聖職者が、実はこっそり自民党に投票したって、
金稼げないやつは○ね!と放言してはばからない金満経営者が、投票所でちっちゃく山本太郎って書いたって、
絶ーっっっっっ対にバレません!
誰っにもバレません!
ほとんど、バレないことを保障するためだけに21世紀なのに選挙は投票所でアナログにやってます。
初めて投票所に行った人は監視されている気分になるかも知れませんが、それは逆です。
あなたの投票が、誰にも干渉されないように監視しているんです。
正々堂々、こっそりやりましょう。
遊びの心得 其の3 正義は一旦忘れよう
正義との危うい緊張関係は、政治の面白さの一つです。
せっかくこっそりやるんですから、いっそ自らの正義のしばりは外してしまいましょう。
繰り返しますが、他人事の、ましてや単なる生態観察です。
観察では、偏見を持たず、予断を排し、虚心坦懐に向き合うことに努めましょう。
そして、観察結果に対して考察や分析や分類を試みるとき、あるいはさらに発展してオリジナルの政策を考案するような時は、突拍子もない想像や極端な思考実験も含め、自由に大胆にロジックを展開しましょう。
正義を持ち込まない理由は、単にその方が面白いからというのが大きいですが、テクニカルな理由もあるにはあります。
ややこしい話ですが、軽く触れておきます。
一つは、正義とロジックは相性が悪く、丁寧に分けないと政治のキモである議論自体が萎縮し、硬直化してしまうからです。
どう相性が悪いのかがややこしいのですが、雑に言えば、
正義の『正しい』とロジックの『正しい』が混同しやすい
って事です。
そして、実際起こることは結構典型的です。
『単に事実を言ったつもりだったのに、不謹慎と怒られた。』
『ロジックの誤りを指摘したら、思いがけず誰かを傷つけてしまった。』
って感じでしょうか。
個々の政策について、その効果が大事な評価対象ですが、議論の段階でより大事なのは、その政策によって生じる波及的な影響があらゆる方向に対して検討され、配慮されているかです。
特定の課題に対する効果ばかりに意識が行き過ぎたあまり、その政策によってうっかり一部の人に不利益が偏ったり、より大きな問題を引き起こしたりなんて事が無いように議論が重要になります。
その政策の批判や検証という、政治プロセスのキモとなる議論が「不謹慎だ」?
起こりがちですが、的外れですし、邪魔です。
ある方向への配慮が足りないことに気付くためにも、むしろ必要なプロセスです。
政策として社会に実装する前の議論の段階で、センシティブだからと俎上に上らないことの方が危険な気がするんです。
ましてや、純粋な興味・関心で議論していたら、斬新で決定的なロジックにたどり着いた時、より刺激的な言葉でぶつけたくなるのは、至極真っ当な衝動です。
この衝動からくる発言が、聞く人によっては意図的に傷付けようとしている言葉選びに映ってしまうことは、ほとんど避けられない事態に思えます。
それを無理やり避けようと一々正義のブレーキを掛けていては、議論のダイナミズムは失速しますし、ロジックそのものの魅力を削いでしまいます。
もう一つは、政治のルールの問題です。
・政治は正義に立ち入らない、政治は利害の調整が本分
・政治は一部の人の直接の働きかけを反映させてはならない、選挙による間接的な後ろ盾のみが政治にとっての唯一の正義
というルールがあります。
正義は超大事なんで、政治に正義の実現を負わせちゃいけないんです。
政治には利害の調整をさせ、その結果として社会の実態が正義に適っているか否かのジャッジは主権者たる国民がそれぞれ負うものです。
多分そういうルールだと思うんですが、実は最近よく分からなくなってます。
詳しくは『投票率』や『憲法』絡みで遊ぶ時に書きたいと思います。
プロの政治家になったら、「より多方向へ配慮した思い遣りある言葉選び」を求められるのかも知れませんが、遊びで他人事な政治ウォッチャーとしたら、まずはロジックに集中したいですよね。
なので、正義は一旦脇に置いておきましょう。
どうせこっそりなので…。
遊びの心得 其の4 基礎は要らない
ある程度の基礎を積み上げてから実践…という発想は今やかえって非効率かも知れません。
現状から課題を浮き彫りにする新しい切り口の提起、
課題をより効果的に解決する新しい政策、
その政策批判として決定に見える事実の提示やロジックの展開・・・、
これら高度なスキルを前提にはしません。
必要なスキルは自然と鍛えられちゃうのが遊びです。
前提条件という意味では「日本語」ができればOKです。
あるいは、政治の背景・歴史や具体的な法律や行政機構の知識は・・・、
やっぱり要らないですし、そもそもそれを前提とするにはとてつもなく大量で広範で、いつまで経っても基礎が終わりませんよ。
知らない事やわからない事はその都度ググればいいんじゃないでしょうか?
基礎的な知識や技術を前提としてより発展的・専門的なそれを積み上げていくみたいな世界観は取り敢えず忘れましょう。
きっと、太古の昔、まだホモサピエンスがスマホを使えなかった時代の名残です。
知識やスキルについては、場当たり的に遊んでいるうちに、だんだんと全体像が見えてきて、だんだんと解像度が上がってきて、だんだんと辻褄が合ってくる、といった良い意味でのいい加減さというか、鷹揚さがちょうどいい姿勢だと思います。
遊びの心得 其の5 タイムリーな話題から始めよう
取っ掛かりはたくさんあるものの、敢えてお勧めを挙げればタイムリーな話題です。
で、やっぱり地方政治より国政です。
タイムリーな話題は、情報を入手しやすいです。
また、国政は一つの話題にコミットしてる人の数が多く、議論がある程度煮詰まっている事が多いので、その人達の立ち位置や視点の違いもわかりやすいです。
外交・安全保障・憲法改正
エネルギー・原発問題・環境
社会保障・増税・働き方
多様性・夫婦別姓・
教育・医療・経済
列挙しながら、長いことタイムリーだなってツッコミそうになりましたが、割と現在も議論が活発なテーマです。
テキストでも動画でも、自分にとって取っ掛かりやすいコンテンツがきっと見つかるはずです。
YouTubeなんかは入口としては格好のプラットフォームです。
デメリットは、あっという間に見慣れた人達で染まってしまい、意識的に抜け出さないと、自然とは出口に辿り着かないって事です。
でもまあ、取り敢えずどっぷりハマればいいと思います。
遊びの醍醐味 1 陰謀論こそエンタメ
陰謀論は面白いです。
私は大好きです。
まさに遊びの心得どおり、正義を忘れて思いっきりロジックを飛躍させ、センセーショナルなストーリー仕立てでぶち上げた大胆な仮説と言えます。
ほんとに最初は誰かの遊びだったものが陰謀論の正体なのかも知れません。
ただ、世の中に出回っている陰謀論の多くは、陰謀ありきになっていて、全く検証に耐えないものになっています。
シンプルに事実関係が怪しいですし、「黒幕」のようなほとんど人智を超越したファンタジーのような存在を創出したり…。
多くの陰謀論が、仮説として非常に面白いだけに残念ですが、我々としては、ロジックの綻びを見つけ出す練習材料として、ガシガシこねくり回して惜しげもなく壊してみることで成仏させてやりましょう。
自分で大胆な仮説を立てるときに、もしかしたら役立ちます。
ちなみに自分発信でない陰謀論の流布に加担するのは、やめましょう。
別に正義を思い出した訳ではありません。
単にそれはこの遊びの醍醐味に欠けるからです。
逆に、流布しているアカウントに対しては、エンタメコンテンツを拡散しているのだと寛容に捉えて、あんまり叩き過ぎず、軽めの同情と若干の軽蔑と生ぬるく静かなエールを送りましょう。
さて、問題なのは、「もし自分で十分に説得力のある陰謀に気付いてしまったら…」です。
遊びの醍醐味 2 ホントは誰かと議論したい
本来、議論とは自分の考えを他人の批評に晒し、他人の考えを批評し、それによってロジックを磨いていく作業のことです。
こっそり政治を観察することを提案してきたこの記事ですが、当然こっそりとなれば、他人の考えを批評すること、誰かと誰かの議論をさらに批評することはできても、自分の考えを他人の批評に晒す事ができません。
初めのうちはそれでも楽しめると思いますが、遊びにハマってくると満足できなくなってくる日が来ます。
おそらく、そう時間は掛かりません。
誰かに自分の考えを批評して欲しくなります。
議論を戦わせたくなります。
これは決して、自己表現や承認欲求といった心情的な側面だけからの欲求ではありません。
ロジックに必要不可欠な要素が、他人の批評だからです。
こっそりから抜け出して、議論の相手を見つけたいと思った時のコツというか注意点を挙げてみたいと思います。
①相手は選ぼう
ガチの人にシャレは通じません。
相手がシリアスになったり、イライラしていたりしてるようなら既に遊びは成立していません。
お互い無駄に不愉快なだけなので議論をふっかけるのはやめましょう。
できれば、同じように議論は議論、正義は正義、と分けて考える遊びが楽しめる相手が理想です。
コツは、おっかなびっくり小出しに議論を当ててみることです。
相手の反応で何となく議論というものに対するその人のスタンスが見えてきます。
そして、幸運にも議論できそうな相手が見つかっても、地雷を踏んだと思ったらサッと引きましょう。
あなたに譲れない正義があるのと同様に、相手にもあるのは当然です。
特定の話題に関して完全に対象化しきれないとしても、それは仕方のないことですし、それ自体責められる筋合いでもないはずです。
②自分を知ろう
WebやSNSは技術的には理想のツールです。
最初にWebに出会ったときは、「これで議論の相手に困らない」と思ったものです。
ところが、現実にはむしろ議論を萎縮させてしまっているようにも見えます。
不特定多数の目に触れる可能性のあるWebやSNSでは自分の発信に対してどこから矢が飛んでくるか分かりません。
ここでは、あなた自身の世界との関わり方次第な気がします。
「何を言われても平気、バンバン言いたいこと言う」というメンタル最強の人もいますし、実際本人は平気そうです。
が、彼に日々送られてくる怨嗟のDMを見ると、何故平気でいられるのか私には分かりません。
コツというより傾向としては、ある程度量的にまとまった情報を発信すると、比較的ネガティブな反応が少ないようです。
Twitterのように短い言葉は捉え方も多様になりがちなのでリアクションも意外なものになってしまうかもしれません。
遊びの醍醐味 3 完璧に思えたロジックが…「あっ!」ってなった時
数学のテストで、何度も見返したのに計算ミスしたことが誰でもあると思います。
これを「ケアレスミス」と呼ぶようですが、いやいや、ケアをしても起こり得るのがケアレスミスの類のミスです。
それでも間違えるんです。
ケアレスミスの対処法として、注意深く慎重に計算することは決定的でないどころか、効果的でもありません。
単にテストというゲームのルール上、それしかできないだけです。
ロジックは簡単に間違います。
慎重に見直したつもりでも、自分ではなかなか気付かないのがロジックの間違いです。
ところが、一旦気付けば、割とはっきり間違いだとわかるのがロジックの面白いところでもあります。
そして、より効果的にその間違いに気付くために必要なのが、他人の批評なのです。
自分の考えを他人の批評に晒し、他人の考えを批評し、そのやり取りをまた別の人が批評し、だんだんとロジックが鍛えられていくことが議論の本旨です。
一応確認しておくと、戦わすのは議論ですよね。
なんか議論を戦わすみたいな体裁で、人格を削りあってる泥試合を見せられる事がよくあるんですが、何の意味があるのかよく分かりません。
さて、批評の連鎖によってロジックを磨き鍛えていくことが議論の本旨だと言いました。
そして、おそらくこれが人類ができる間違い探しの限界なんだろうと思います。
「間違いのないロジック」「完璧なロジック」を決定的に判定するようなツールは、少なくとも現状では存在しないはずです。
現実の政治では、完璧とは言えないロジックをベースにした政策が実施されることになります。
ましてや、その過程である議論の段階では、間違いだらけです。
しばしば、完璧に見えたロジックすらひっくり返る瞬間を目撃することがあります。
この『あっ!』という瞬間こそが、この遊びの醍醐味なのでは無いでしょうか。