骨髄移植のドナーになった記録

その他

骨髄移植のドナーとして骨髄提供をしました

当初、骨髄ドナーになった件に関しては、議員活動とは無関係な、非常に個人的な話のつもりだったので、ここに書く予定ではありませんでした。
しかし、ドナーとして骨髄提供を行う一連の流れの中で、議員としてできることがあるかも知れないと考えるようになっていきました。

そこで、課題を整理する意味も含めて、私の視点からの骨髄提供の流れを記録しておくことにしました。

骨髄提供に際しての約束として、時期を明記することはできませんので、時系列について、少しわかりづらい部分もあるかと思いますが、ご了承ください。

ドナー登録の経緯

骨髄移植のドナーになるには、予め『日本骨髄バンク』にドナー登録してあることが前提になります。

私は2017年の4月に『川の手あらかわ祭り』に於いて、東京荒川西ライオンズさんの主宰する献血活動で献血をした際に、東京荒川西ライオンズの方に「どうですか?」と誘われて、併設された窓口で『日本骨髄バンク』にドナー登録しました。

これ以前にも度々ドナー登録に誘われたことはあったのですが、それまでは適当な理由を付けて断っていました。
断っていた理由も特になかったのですが、敢えて言えば「よく解らないから」でしょうか。
もちろん無理解からくる漠然とした怖さもありました。
いずれにせよ、骨髄移植についてあまり知識もなく、意識も向いていなかったのです。

そんな私が、この時は即座にドナー登録したのは、この2ヶ月前に妻を亡くしていた事が大きな動機となっていました。

妻は癌を患いました。
癌が発覚した時はショックでしたが、妻と2人で気持ちを鼓舞し、癌と徹底的に闘い「やれることは全てやろう!」と約束しました。
しかし、肝心の「やれること」が中々見つからなかったのです。
民間療法、新薬の治験も含め、様々な情報を集め、可能性を探しましたが、とうとう決定的な治療が見つからないままに妻は帰らぬ人となりました。
私たち2人を強く鼓舞した「やれることは全てやろう!」という気持ちだけが行き場を失い、無力感と罪悪感となって、残された私に返って来ていました。
そんな状況であった私は、せめて知らない誰かでもいい、何かすることで、この無力感と罪悪感をどうにかしたかったのです。

とは言え、ドナー登録しただけです。
骨髄移植をするためには患者とドナーとで白血球の型が一致している必要があり、非血縁者間で一致する確率は数百万~数万分の一とかなり低い確率となっています。
したがって、多くのドナー登録者は実際にドナーになることなく年齢制限(55歳)を迎えることになるということです。

事実、この登録時に私の中に何らかの感動や感慨があったわけでもありませんでした。

ところが、思いがけず、それも割とすぐに事態が進みました。

ドナー候補者となる

2017年10月、ドナー登録から半年たった頃、自宅に封書が届きました。

骨髄ドナーの候補者の1人になったという通知でした。
それから間を開けずに日本骨髄バンクのコーディネーターという方からも電話がありました。

この時に知ったことなのですが、患者さん側ではより条件に適したドナーを選ぶために、最初は複数人のドナー候補者に対して骨髄提供の話を進めるらしいのです。
候補者になったからと言って、こちらの返事だけで即ドナーに決定するというわけではないのです。
私は、ドナー登録の経緯からして、是非ドナーになりたいと思っていましたから、コーディネーターにはもちろん提供の意思があることを伝えておきました。

ところが、そこからさらに半年後の翌2018年2月に再び封書が届き、ドナーから外れた事が通知されました。
非常に残念だったのですが、登録時にはそれほど現実味のなかったドナー登録でしたが、ドナー候補者の通知を受けて以来、実際に自分が役に立てるかも知れないという実感を持つ事ができました。

そして、ついに現実にドナーとなることになるのです。

2回目のドナー候補者となり、そしてドナーとなる

ここからは具体的な日時を示すわけには行かないのですが、先にチラッと書いた『課題』にザックリとしたスケジュールも関わってくるため、2回目のドナー候補者となった通知を受け取った月を『第1月』として書いていきます。

第1月 骨髄ドナー決定

再び自宅にドナー候補者となった旨の通知が届きました。
直後のコーディネーターからの電話にも前回同様の返事をしました。

すると、今度はそれから2週間ほど経った頃でしょうか、ドナーに決定したという通知が届いたのです。

今度こそ実際に誰かの役に立てるのだと、感慨と言いましょうか感動と言いましょうか、軽い興奮を覚えました。

決定通知とほとんど同時に再びコーディネーターから電話がありました。
実務的なことで言えば、これより先は殆どコーディネーターがスケジュールから管理してくれますので、私自身はそのガイダンスに従って行動していくことになります。
この電話では再び提供の意思確認をされ、提供の意思がある旨伝えると、第一回目の面談が設定されました。
面談の場所は私のアクセスの都合を考慮して選べるということで、近場の駒場病院に決定しました。

第2月 第一回面談

午後から約束の駒場病院に向かいました。
病院前でコーディネーターと初めて顔を合わせ、すぐに病院内で面談が始まりました。

医師・コーディネーター・ドナー(私)の三者での面談でした。
この面談では、医師より”骨髄移植とは”の説明があります。
具体的な手術の方法や、特にリスクについて丁寧に説明を受けました。
その説明を聞いた上で、改めて骨髄提供をするのかどうかを、ドナーに熟考させるのが目的のようでした。

この段階では、医師・コーディネーター共に移植を成立させることよりも、ドナーが提供をするにしろ、断るにしろ、意思を固める基となる情報を提供することを目的としているようでした。

骨髄提供を受ける患者さんは、移植に向かって前処置を開始することになりますが、この前処置は引き返す事ができないものなのです。
もし前処置を開始しているにも関わらず、何らかの理由で移植ができなかった場合、患者さんは非常に危険な状況となってしまいます。

そのため、まずは、何よりもドナーの意思の確定が重要になります。
第一回面談の目的は、ドナーに対してその意思決定のための材料を揃えることです。
一旦持ち帰り、最終意思確認は第二回目の面談となるようです。

とは言え、私個人は既に意思は固まっています。
その旨、伝えると、提供を前提としての採血検査が行われました。

第3月 第二回面談

再び午後から駒場病院へいきます。
今回は前回メンバー、医師・コーディネーター・ドナー(私)に加え、弁護士と私の身内として父が同席し、計5人での面談となります。

弁護士が同席するのは、今回は同意書へのサインがあるためです。
命の掛かった案件ですから、ここからはドナーが翻意して移植が中断する事が無いよう、骨髄提供の同意書にサインします。

この同意書には、ドナーの親族も同意が必要なため、父が同席します。

実は父にはあまり詳しい話はせず、「骨髄提供することになった」と軽く報告しておいた程度でした。
当初は身内の立ち合いにも、友人で都議会議員の滝口学氏にお願いしようと考えていたからです。
ところが、当然と言えば当然なのですが、やはり立ち合いは親族でなくてはならないらしいのです。

父に頼むつもりがなかったのは、大袈裟な同意書のサインの場に同席させて、余計な心配を掛けたくなかったと言うのもありますし、骨髄提供の説明をするのが面倒臭かったと言うのもあります。
反対こそしないだろうとは思っていましたが、もしかしたら不安な顔をされるかも知れないなと思っていましたが、すんなりと同意書にサインしてくれました。

これで、いよいよ本格的に骨髄提供へ向けて動き出します。

第4月上旬 健康診断

順調にいけば、手術まで後1ヶ月のこの日は、1日掛けての健康診断になります。

採血・心電図・肺活量・検尿といった、年例の健康診断でおなじみのメニューをこなし、改めて私がドナーに相応しい健康状態であるかの検査が行われました。

第4月下旬 自己血貯血

骨髄提供で採取する骨髄と言うのは、成分的には血液と近いものらしく、手術当日に採取する骨髄分を充当する形で、予め採取しておいた自分の血液を輸血することになります。
そのために予め血液を採取すること、あるいはその血液を貯血と言うそうです。
この日は400mlの貯血をしました。

いよいよ手術まで後2週間です。
ここから体調を崩すと、スケジュールが変わってしまいます。
患者さん側に余計な負担を掛けないためにも、健康管理に気を付けて手術に備えます。

第5月上旬 手術

今回の入院は3泊4日となります。
骨髄提供の手術としては標準的な日程のようです。
入院の準備としては日数分のパンツと靴下だけで、荷物は小さなカバン一つだけでした。

入院1日目 入院

朝いつも通り起床し、いつも通り朝食を食べてから家を出ました。
10:00から入院であったため、時間より少し早く着くように電車で向かいました。
入院は駒込病院ではなく、同じく都内ではありますが、おそらくエリアごとに割り当てられた骨髄移植専門の部門を持つ病院になります。

予定通り、10:00少し前に病院につき、窓口で用向きを伝えると、すぐに上階に案内されました。

病室に案内され、少ない荷物を広げて病院着に着替えると、間もなく昼食になりました。

昼食を食べ終わってしまうと、たちまち暇になってしまいました。
ベッドに寝たり座ったりしながら、ずっと付けていたテレビを観るでもなく観て、途中看護師さんによる血圧や検温を挟みながら、夕食まで過ごしていました。
夕食を食べ終わると、明日の手術のことを少し考えたりしましたが、それほど構えた気持ちではなく、リラックスしていました。
むしろ、持て余した時間をどうしたものかと考えていました。

再びテレビを観ながらひたすら消灯時間を待っていました。

入院2日目 手術当日

朝7:30 起床。
前日22:00消灯だったため、睡眠時間も十分で体調はすこぶる快調です。
手術当日は朝食は食べられないため、トイレだけ済まして部屋で待ちます。
8:30 看護師さんが来て着替えを手伝ってくれます。
入院してからずっとジャージ素材の病院着でしたが、ここで緑色の手術着に着替えます。
前日、病院に来てから買った紙パンツと血栓防止ソックスも履きます。

入院に際しての『入院準備金』として5,000円が、入院初日にコーディネーターさんから渡されていました。
紙パンツと血栓防止ソックスの購入にはこれを当てました。
結局、私が入院に際して買ったのはこの2点だけだったと思います。

着替えが終わると歩いて手術室まで移動します。

手術室の前には待合室のような部屋があり、朝一で自室を出たにも関わらず、室内には既に4、5人の手術着の方々が待っていました。

待合室で座るとすぐに名前を呼ばれました。
どうやら私が一番バッターのようです。

手術室はテレビドラマ等でよく見る手術室と同じ雰囲気です。
中央の天井には、まだ灯は入っていませんが無影灯があり、その下に手術台がありました。
既に3、4人の医師・看護師など、スタッフが準備をしています。
ほとんど会話と呼べるような会話はありませんでしたが、全く緊張を強いるような雰囲気ではなく、リラックスしてスタッフの指示に従い、手術台に横になります。
ちょうど体の幅ほどの、ベッドに比べるとかなり狭いその台に横になると、落下防止用のベルトが巻かれ、体が固定されます。
そして、これもまたテレビで見るような吸入マスクを鼻口を覆うように被せられ、被せたスタッフから10数えるように言われました。

気がつくと、台に寝かされたまま廊下を移動していました。

手術は終わっていました。

そう言えば、その前に手術室で名前を呼ばれて起こされたような気もしますが、定かではありません。
ぼんやりした意識のまま運ばれながら、自分が泣いてることに気付いていました。
無意識ながらも心理的なものが要因なのか、あるいは麻酔の影響による生理的なものなのかは解りません。
意識は朧げでしたが、ポロポロと暖かく耳の辺りに流れている涙を感じながら、強い充足感・満足感に包まれていたのを覚えています。

私は、自分を信心深い人間とは思いませんが、ドナー登録からそれほど間をおかずにドナーになったこの一連の流れの背景に、亡くなった妻の意思の様なものを感じていました。
もちろん逆でしょうね。
私自身が、自分の近くに妻の存在を強く感じられるものを探していたのでしょう。

部屋に着くと看護師さんに介助して貰い、ベッドに仰向けに寝かされました。
寝かされる時、ベッドサイドの時計を見ると11:20でした。
手術に向かうために部屋を出たのが8:45頃、おそらく手術が始まったのが9:00を少し回った頃のはずですので、手術自体は2時間前後だったと思われます。

15:00までは安静だとのことでしたが、未だ麻酔の影響でボンヤリしていた為、言われるまでもなく、そのまま眠りました。
時折、看護師さんが様子を見に来ていた様な気がしますが、私は起きようともせず、看護師さんも特に起こさなかったので、そのまま眠り続けました。

15:00 看護師さんが今度は声を掛けて起こしたので、ようやく目を開けました。
検温や血圧を測ったりして、痛み止めの薬を飲みました。
その後は、テレビを付けてまた観るでもなく観ながら、ベッドの上でゴロゴロしていました。
術部は腰からお尻の辺りだったのですが、若干違和感がある程度で、特に痛みはありませんでした。

18:00に夕食を取りました。
食欲もあり完食しました。
この日は初めての食事ですから、むしろ空腹でした。

夕食を食べ終わり、再び痛み止めを飲んだ後、まだ食べ足りなさを感じてコンビニへ行きました。
コンビニで、お菓子やらカップラーメンやらを買い込み、消灯までずっと何かを食べていました。

入院3日目 発熱

朝、目が覚めたときから、熱があることには気づいていました。

骨髄採取の後にはよくあることだと聞いていたこともあり、全く不安はありませんでした。
「あ〜、これが言われていたヤツか」
と言った感じです。

そもそも、インフルエンザの様な強烈な症状ではありません。
軽い風邪程度でしょうか。
普段であれば、寝込んだりもしなかったかもしれません。
ただ、熱と同時に、術部の痛みも若干ありました。
病室にいるとベッドの上で過ごす時間も長いですし、何より暇なので、自分の体の不調に意識がフォーカスしてしまいます。
病院で寝ているのに誰に憚ることがありましょう、一日寝ていました。
朝、昼、夕食と食事は3食完食しましたし、熱も昼頃がピークで、夕方には術部の軽い痛みだけになっていました。

入院4日目 退院

7:00 起床。
熱もなく、体調はほぼ気になりません。
術部の痛みはありますが、元々それほど強いものではありません。
ほとんど2日間寝ていましたから、体の不調なのか、なまっているだけなのか区別できません。

朝食をとって、荷物をまとめ、10:00に退院しました。

帰りは、座れなかった時の事を考えると、電車を少し億劫に感じたので、タクシーに乗りました。
帰りがてら、実家に寄って退院の報告を済ませた後、帰宅しました。

第5月下旬 最終確認

手術から3週間後、コーディネーターから電話がありました。
術後に何かトラブルがなかったかの確認でした。

退院の翌日は休日だったこともあり、実際に仕事に復帰したのは退院の翌々日だったのですが、その時には支障をきたす様な手術の影響は全くありませんでした。
手術跡はもちろんまだありましたが、既にかなり小さくなっており、最終的には跡も残らないのではと感じられるほどの小さな跡です。

私個人的な感触としては、骨髄採取の手術は『手術』という大袈裟な言葉に反して、むしろ献血のちょっと大掛かりなもの程度に感じられました。
今回、私は750mlの骨髄を採取しましたが、採取の量も貯血と行って来いで350mlです。
手術というと、メスを使って体を大きく切る様なイメージをしてしまいます。
ですが、自分の手術跡は、そもそもメスを使ったのかも疑わしい様な、5ケ所の注射痕程度が残っているだけです。

術後の経過は順調な事をコーディネーターに伝えると、これでコーディネートが終了する旨が、伝えられました。
ドナー候補者になって以来、この日まで、骨髄提供に関わる一切の実際的な業務に私自身は全く煩わされることが無く、コーディネーターに委ね切って安心していました。
本当に見事なお仕事でした。

お互いに労いの挨拶をして電話を切りました。

終わりに

これが、私の骨髄ドナーの体験記録となります。

「個人的な話なので、書くつもりはありませんでした」などと言っておきながら、書き出すと前のめりになってきて、随分感傷的な文章になってしまいました。
読み返すと、気恥ずかしさが先に来てしまいますが、何より、私にとって非常に感慨深い体験であった事をお伝えするには、拙い筆力ではこれより他になかった事を思って、敢えてこのまま残しておきたいと思います。
冒頭で書いた『課題』に関してはまた改めて書きたいと思います。

患者さんにとっては、骨髄移植というのは、これから始まる過酷な治療のスタートに過ぎない様です。
患者さんにとっても顔も名前もわからないどこかの誰かである私ですが、患者さんが厳しい状況を乗り越えられ、その先に幸せな日常が訪れます事を、心より本当に心よりお祈りしております。